愛の言葉

好きなひとに好きになってもらいたい。

 

なんて幼稚な言葉なんだと思いつつ、浮かんできたその気持ちを消すことは難しかった。

 

今日、人生で初めて結婚式に出席した。

いや、本当は従兄弟の結婚式にも親族として出席したことはある。だけど、幼かったからか、正直に言ってあまり記憶にはない。最近で言えば、先輩に招待していただいて二次会に参加したこともある。だけど、キリストの前で誓う結婚式、というか披露宴とか二次会とか、そういった結婚式に関する一連の全てに出席したのは初めてだった。

 

招待してくれた友人は20年来の友人で、おそらく幼馴染というようなものだと思う。名前順も背の順もいつも近くて、ほとんどは私が彼女の1つ後ろだった。だから仲良くなったのか、といえば、たぶんそうではなく、私たちはちょっと特殊で、小学校の低学年のころからクラブチームで水泳をしていた。いわゆる部活ようなもので、毎日3時間、休みは週に1回。その1日でさえ、学校に行けば彼女を見かけた。好みの歌も洋服も、決して話が合うわけじゃなかった。それでも、一緒にいる時間が長かったからか、気がつけば色々なことを共有していた。

 

同級生だったけれど、どちらかというと私は姉のような立ち回りで、彼女の面倒を見ることが多かった。面倒を見る、という表現は公平な立場であるはずの友人として少し語弊があるかもしれないが、わがままで甘えん坊な彼女はよく拗ねていて、ほおを膨らます姿は未だに容易に思い浮かぶ。さすがに最近はそんな姿も見なくなったけれど、それでもあの頃の記憶は鮮明で、そんな彼女が結婚するほど大人になったのかと思うと、感動させるための演出だと知っていたが自分でも驚くほど泣いていた。

 

私たちの中でたぶん彼女が1番早くに結婚するだろうと思っていた。高校を卒業したら結婚するかなあ、なんて、みんなで言っていたから、むしろ24歳だったら遅いくらいだって笑ったけれど、自分としてはもう結婚するの?まだ早くない?というような気持ちもあってちょっと複雑。それでも最近は色々な場面で大人になったと感じることが多くて、結婚というワードもかなり身近なものとなった。

 

恋愛と結婚は別、生きていく上でのパートナー、なんて言葉も聞く。そしてたぶんそれは間違っていない。わたしだってせっかく生きていくなら上手く生きたいし、できる限り幸せに生きたい。わたしが好きなひとと、わたしに合うひと、それが必ずしも同じではないってこともなんとなく感じてる。

 

だけど今日は、どの場面がとかどのエピソードがとかは特にないのだけど、帰りの電車で気がつけば冒頭の言葉が頭の中を占めていた。

 

好きなひとに好きになってもらいたい。

 

中学時代のことをたくさん思い出したからかな。だから中学生のような夢見がちな発言をしているのかもしれない。

 

ただ、なんとなく。新郎新婦の幸せそうな顔を見たら、そう思っていた。できることなら、あんな幸せそうな顔をわたしの好きなひとにしてほしいなあ、なんて。

 

たぶん結婚とは生活で、今日は式典だから、特別な晴れの日なだけ。日常は当たり前のように始まって、続いていて、そんな日々の暮らしの中だと、一緒に居て楽に生きていけるひとがいいと思ってはいるんだけれど。それでも、できれば、わたしの一生に一回の晴れの日は、わたしの大好きなひとと迎えられたらいいのにな。

 

本当の1番の理想は、わたしの好きなひととわたしに合うひとが同じで、結婚式も最高に楽しいパーティを一緒に作って、日常もほどよく楽に暮らしていけたらいいんだけれど。中途半端に大人になってしまったわたしは、そんなことは難しいんじゃないかと悩むわけで、そもそもそんな日はいつ来るのやらという状態で。いくら考えても計画しても上手いプランは思い浮かばず、ただ時の流れの速さと短い残り時間に恐怖を感じながら、それでもやっぱり理想を求めるから、わたしは理想が高いと言われてしまうのかな。

 

ともあれ、初めて呼ばれた結婚式が彼女のものでよかったなと思うし、言語化の難しい不思議な気持ちがいっぱいなのだけど、まずは本当におめでとうございました。だいすきな友人に、幸あれ!